仏教について住職の語り【第一回】

仏教には、仏さまの教え、という意味と、仏さまになる教えとの二通りの考え方があります。約2600年前に現在のインドで広まりました。 吾々にとり、釈尊は仏法を説いた方でありますが、いわゆる血も涙もない方ではありません。苦悩を感じない無味乾燥な方でもありません。生身の仏として、いろいろご苦労なされ、晩年には故郷を目指して歩まれました。 釈尊は吾々に解りやすい言葉で語り、決して難解な用語を使うこともなく、ただただ衆生のためにそのご生涯を捧げられたのです。従って、仮に入滅の姿をとられたのであって、仏の説法は今もなお生きていると云っても過言ではありません。 今日、仏教が批判されるのには、吾々仏教側の広報不足もありますが、それ以上に僧侶や寺院が人々から信頼を失っているのが原因だと思います。 どのようにしたら仏教が人々から尊敬の念をもって受けとめていただけるのか、これから皆さんに私なりの考えを述べてみます。 さて、仏教には一年を通じていろいろな行事があります。正月のお参り、2月の節分、涅槃会、春空きの彼岸、4月の花まつり、夏の盂蘭盆等々。宗派によって異なるものもあります。大まかに分けて祈願、供養、報恩の3つです。最初に祈願について考えましょう。 吾々は生きていく上において、苦労や苦悩が伴います。幸せになりたいという願いを誰しもがお持ちでしょう。しかし、なかなかそれが困難なことは皆さんがご承知です。釈尊のご生涯をたどればその解決方法が見つかるといえますが、それは後ほど述べます。祈願は人の営みにおいて、やむに止まれぬ心の発露です。決して心が弱いからするのではなく、自らのこれからの指針としての意味をもちます。例えば「家内安全」は、自分一人の幸せではなく、家族全体の幸福を願うものです。家族の幸せは自分の幸せでもあります。そこに他を思いやる心が生まれます。家内が幸せであれば、やがて地域、市町村、都道府県、国へとその広がりを見い出すことが可能かもしれません。釈尊の教えは、実に身近なところから実践されるものであり、空理空論でも高尚なものでもないのです。一人の幸せが多くの幸せを生むのです。 文:【住職】髙橋 隆文