住職の語り【第三回】

檀家さんと話をする機会がある。その時に、「お寺さんがいるから安心だ。(自分が)死んだら頼むね。」と言われることがよくあるのだ。また、当山の通称「コロリ薬師」にお参りする方にも似たような言い方をされる。 まるで、ここから隣へ行くような感じで言うものだから、こちらが面食らう。 私も葬儀の導師を務めるので、もちろん法にのっとって亡くなられた方をあの世に送る責任がある。一生懸命拝む。その時に、亡くなられた方から託された思いを、葬儀という場を通じて具現化できる僧としての役割をじっくり考える。 故人にはいろいろな喜び・苦労があった。生きることが大変つらい時に、何を思って一日を過ごしたのだろう。この私にしてやれることがもっとあったのではないか。 結局何もしてやれずに、今日この葬儀を迎えた。人の世の儚(はかな)さと、人の命の重さというものを同時に考えあわせる。だからこそ導師たる以上、故人には厳粛な気持ちで『仏の教えによって、あなたは迷わずあの世に旅立つのですよ』とお送りするのである。 檀家さんのあの明るさはいったいどこから来るのだろう。それは、故人が生前中に精一杯生きたからではないか。毎日神仏に手を合わせ、小難しい教理とは別の世界で素直に拝む。お祭りが来れば、ごちそうを作り酒を飲み皆で祝う。不幸があれば、隣近所で助け合って弔いをすることもある。 一年の内にはいろんな行事があり、人々は神仏と共に日々を生きている。今は、昔ほど行事を重んじなくなり、確実に生活から潤いが消え、殺伐とした世の中になりつつある。 心というものは目に見えないから、私たちは「形」というものを通じて心を具現化して、すなわち象徴化して、感じ取ろうとする。それが一連の行事にあらわれる。 葬儀や法要にも同様のことが言える。「みたま」は目に見えぬけれども、故人の「みたま」を抜きにして葬儀も法要もないと思う。仏と導師と故人の気持ちが一つになる。故人と遺族と親族、そして参列者の気持ちが一つになる。そこに「みたま」の安心感が生まれる。 私が目指そうとしている理想社会は遠くにあるのではなく、案外この寺の中にあるのかもしれない。