住職をしていますと、いろいろなことがあります。喜怒哀楽の人生そのままに、また四季折々の自然の有り様のように物事と人は移ろっていきます。
その中でも、やはり元気だった檀家さんの生きよう・病気・老い・そして死には身につまされるものがあります。年齢を重ねるにつれて、気づかされることも多々あります。どうしても、「自分は永遠に若い」という錯覚に陥るのです。希望は、その延長線上にあるわけで、もし未来が暗ければ希望は砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)そのものです。
生老病死を見つめて、自分が無常であり、移ろいゆくものであり、儚(はかな)いと気づき、途端に暗澹(あんたん)たる感情を覚えたとき、私たちは絶望するべきなのでしょうか。それでは何のために仏の教えが存在するのでしょうか。
私にいま言えるのは、「いまを生きる」・「ただ生きる」・「ありのままに生きる」。
私は運命論者ではないので、何事も運命のなすがままだという考えはとりません。やはりなすべき道というものがあるのです。
それが八正道、すなわち「①正見(しょうけん) ②正思惟(しょうしゆい) ③正語(しょうご) ④正業(しょうごう) ⑤正命(しょうみょう) ⑥正精進(しょうしょうじん) ⑦正念(しょうねん) ⑧正定(しょうじょう)」であり、
十善戒「①不殺生(ふせっしょう) ②不偸盗(ふちゅうとう) ③不邪淫(ふじゃいん) ④不妄語(ふもうご) ⑤不綺語(ふきご) ⑥不悪口(ふあっく) ⑦不両舌(ふりょうぜつ) ⑧不慳貪(ふけんどん) ⑨不瞋恚(ふしんに) ⑩不邪見(ふじゃけん)」です。
何もしないでのらりくらりと過ごし、何も考えずに生きるのが、私の言う「今を生きる」ではありません。私は都会に住んでいるのではなく、いわば山の中のお寺なので、自然に囲まれ、鳥や獣を見て暮らしているので、自然の移ろいには敏感です。便利な都会暮らしにも憧れましたが、今では「山のお寺の住職」に満足しています。
私にも人並みに悩みはありますが、それを肥やしに「まあ、仕方ないか」とか、「こんなもんか」と、それこそ愚痴を口にして、日々生きています。
私は檀家さんの葬儀や法事に際し、御霊(みたま)の生老病死に思いを馳(は)せ、「今まで生きてくださってありがとう」や、「今、幸せですか」と心の中で声をかけます。「死はゴールではない―新たなスタート」。「死は終わりではない―永遠に生きる上での通過点。」私は、引導を渡した御霊(みたま)と一緒に、いずれ永(なが)い永い時を過ごすのです。それが私の幸せです。
ただ、ここで誤解してほしくないのは、私が今ある命を決して軽視してはいない点です。路肩で咲く小さな花を見るにつけ、「ああ、精一杯生きている。ありがとう。私も一緒にがんばるよ。」と心の中で話しかけます。境内に平洲先生お手植えの椿があります。この椿は生命力の非常に強い植物で、長い冬の間は雪と寒さにじっと耐え、春になれば自分の力で起き上がり、真っ赤な花をいっぱい咲かせます。私はこの椿に元気をもらっています。
どうでしょう。皆さんもこの椿に会ってみませんか。何かしら語りかけてくれるかもしれません。椿の花の赤い色は、平洲先生の鷹山公に対する純粋な気持ち、そして私たちの体に宿る生命力の証(あかし)なのです。