一字一涙の碑は大正4年に建てられたもので、平洲先生が九州久留米の弟子樺島石梁に宛てた手紙の一節を刻んでいます。
手紙には、平洲先生と鷹山公との出会いの様子がいかに感動的であったかが記されており、それを読んだ神保蘭室が一字一字読み進むごとに涙を流したことから一字一涙と銘々されました。
石碑に書かれている言葉は次の通りです。
翌六日に嶺を下って米沢から三里の大沢という駅に着きました所、鷹山公が親しく途中まで御出迎になっているということが聞えて来たので、急いで八つ過(午後二時)に羽黒堂と申す地に着きました。ここは南郊一里五六町も米沢の府城から距った所です。
最早侯の儀衛が遥に見えましたので、五六町轎を下りて歩みました所、普門院という寺の門前の両側に家来の者共が俯伏し、侯は路の中心に立ってお待ち下さいました。進んで、私は地に手をついで拝し度く思いましたけれども、侯の態度はそう致しますと地に手をついで御答拝になる様子なので、やむを得ず足跗に手をついで拝しました。
先づ何の言葉もなく老涙満顔で、侯も一向無言で涙満面、先生御安泰とおっしゃっただけで、御案内申しますと寺門に入られました。外門から中門までは足指仰ぐ三丁斗りの坂路です。
並んでお進みになって一歩も前を御歩きにならず、杖を進められましたけれども、辞退して杖つかなかったから、もしやつまづきでもしまいかと、の御心遣と見えて、手を引かぬ計りに肩を比べてお進みになりました。